パワハラ110番

日本の歴史は、"パワハラ"の歴史!?

パワーハラスメントという言葉が、今のようにメジャーになったのは
2000年代に入ってからのこと。
しかし、長い日本の歴史を振り返れば、
その根は非常に深いことが見て取れます。

 

教科書に出てくる、あの有名な武将も、
パワハラを受けたり、逆にパワハラ上司だったりした…。
事実かどうかは定かではないにしても、そういったエピソードを知ることは
パワハラ上司を戦うモチベーションUPにもつながるかもしれません。

 

ここでは、歴史上の有名な「パワハラエピソード」を2例ご紹介します。

平家物語から考えるパワハラの歴史

2012年度のNHK大河ドラマ『平清盛』は、視聴率こそ低かったものの
貴族の時代→武士の時代へ移り変わるあの時期の歴史が好きな方にとっては
「待ってました!」と両手を広げて歓迎する企画だったことでしょう。

 

ところで、あのドラマの中にも、いわゆる"パワハラ"のエピソードが登場していたことに
みなさんはお気づきだったでしょうか?

 

清盛の父親・忠盛が、公家の前で舞を披露していた際。
周りの公家達から酒をかけられたり、笑われたりしていたシーンがありました。
あれは、今でいう"パワハラ"。

 

さすがにドラマの中ではカットされていますが、原作では
公家たちは、「伊勢平氏は酢甕(すがめ)なりけり」
…と、忠盛をからかう歌を囃し立てたという記述があります。

 

これは、

 

「伊勢で造る瓶子(へいし、比較的小型の壺、酒器)は品がないから
酒など入れられない。
せいぜい酢を入れる甕にしかならない」

 

…と、伊勢平氏を田舎者扱いにしたことを意味しています。
また「酢甕」=すがめ=片目が不自由なことを意味しており、
忠盛の身体的な特徴を揶揄した表現だったことが伺えます。

 

「すがめ」は、現代では明らかに差別用語にカテゴライズされる言葉。
今の時代に使ったら、パワハラでアウト!です(笑)。

 

しかし、あのような嫌がらせは、当時は日常茶飯事だったよう。
忠盛のように新たに内昇殿を許された者たちに対して、
古参の公卿たちが恥辱を加えるという悪き風習があったのです。
こうして歴史をひも解けば、
いつの時代でもパワハラはあったということをうかがい知ることができますね。

明智光秀はパワハラ被害者!?

"上司"である織田信長に対する謀反を起こしたことで知られる明智光秀。
歴史の中では"裏切りモノ"として捉えられる機会も多い光秀ですが、実は、
「光秀は、信長の"パワハラ行為"に遭っていた」
という見解があるのをご存知でしょうか?

 

織田信長は、宿敵の武田家を滅ぼした際、
協力者(同盟者)である徳川家康を招いて祝宴を開いたことがあったそうです。
その席で明智光秀が、
「われら織田家も、幾度の試練を経て、よくぞここまでたどり着いたものでござる」
…といった内容のことを言ったのだとか。

 

これを耳にした信長は、
「家来の分際でなんたる出過ぎた物の言い方!この金柑(きんかん)頭め!!」
…と、他の家来衆や家康の目の前で
光秀の頭を周囲の欄干に何度も何度も叩きつけた…という出来事があったのだそうです。

 

上司が部下に対して、人格を否定する言動を取ること。
変なあだ名をつけること。
…これは、現代ならばパワハラですよね。

 

光秀が本能寺の変を企てたのは、「天下を取るため」ではなく、
好き勝手にパワハラ行為を働いてきた信長に制裁を加えたかったからではないか?
…という説もあるくらいです。
確かに、人前で恥をかかされたり、大事な役目をはずされたり、
変なあだ名をつけられたり、褒美に差別をつけられたり…と、
信長のパワハラによって光秀が精神的に追い込まれていったことは
想像に難くありません。

 

一説によれば、光秀の殺意は、
信長に「キンカン頭」と呼ばれた瞬間から芽生えていたのだとか…。

 

同じように変なあだ名をつけられても何とも思わない秀吉。
片や、殺意を抱くほどの憎悪を持ってしまった光秀。
「パワハラは人によって感じ方が違う」ということは、
歴史の中でもこうして実証されているわけです。

 

"パワハラ"という観点で歴史上のエピソードや人物を見てみると、
意外な発見があって面白いもの。
今、自分が置かれている状況を乗り越えるためのヒントが見つかるかもしれません。

 

温故知新とはよく言ったものですが、
歴史の知恵を"今"に生かして、より良い道を探りましょう。